石垣島は屋良部岳の頂上、石のテラスにて
三連休は7月から就航しているバニラエアを使って石垣島・波照間島3泊4日の旅をしてきました。なので中編が遅れました・・・m(_ _;)m
那覇に住んでる方!今は往復10,000円で石垣まで足を運べますので、ぜひバニラに乗って沖縄の更に東南の島々を満喫してくださいね!
それでは本編・・・・
前田高地の周囲を歩くと、南側はまだ浦添城跡の発掘途中でその全貌が明らかになっていないのがよく分かります。
かつての浦添城は舜天、英祖、察度の3王朝10代の王様の居城と言われていますが、歴史上確証があるのは察度王のみ。舜天は源為朝の落し胤(保元の乱に破れて琉球に逃れ、挙兵のため日本に帰った)なんて言われているので存在自体が眉唾な気もするのですが、想像を働かせて楽しむ余地があるのもこうした伝説のよさですよね。
ガイドさん「察度王時代の石垣は、戦前に学校を造るために多くが再利用されて、今は最後の一段しか残ってないんですよ。」
手っ取り早く先人の石材を再利用・・・護佐丸の時代も明治時代も、500年以上経ってもやることはあまり変わらないようです。
風情ある、緑の中の石畳が登場!
その昔、首里城に続く街道だった道を再現したものが現れました。
今や石畳もコンクリートに固められた形で再現されているものが多数ですが、ここは再現率が高いんじゃないんでしょうか!?緑の中にぽんとある石畳なんて・・・風情抜群!!
ただ、残念なことに
歩き心地は見た目以上によろしくなかったりします。風情と現実の狭間に、静かに揺れるこの心よ・・・・。
しかし間もなくぶった切れて終了。道程を忠実に再現
時は流れる、地形も変わる・・・それは後述する、「ハクソー・リッジ」の舞台でも・・・。
浦添大公園南エントランス管理事務所へ
管理事務所という
地味な役回りの割にちょっと前衛的な建物が現れました。
この事務所には展示コーナーがあります、少し立ち寄っていきましょう。
前田高地の模型。写真の右側から見れば全て説明を見ることができます!
沖縄戦当時、島に上陸したのは米軍54万人中18万人。
沖縄に攻め入る前に米軍は南洋諸島で日本軍と戦っていたので、日本軍の特異的な戦術をよく熟知していました。日本軍の夜襲に悩まされた苦い経験のある米軍は、対策として火炎放射器を持ってきたそうです。
当然、沖縄戦でも日本軍は夜間の切り込みに出ていったのですが、米軍は手口を知っていたため帰ってくるものは少なかったそうです。
なお、この点について米軍側は「悩まされた」と回顧しているので、両軍によって感じ方が違ったんだなぁというのが興味深いところ。
日本でも沖縄だけ!墓をつないで造った壕の全容がコレだ!!
これはすごい!!
沖縄でもまとまった墓地では、大きな墓を拡張した上でトンネルで連結させ、壕を造っていたそうですよ!やっぱ窮状での墓の活用において、沖縄に勝るものなし・・・!
ごめんご先祖様方
ちなみにこれは経塚ですが、今はもう存在しません。
これ、どこかに残ってないかなぁ・・・ぜひ見てみたいものです。。
展示室の見学が終わったら、事務所で飲み物をいただき再度外へ
カンパン壕や次に訪れる缶詰壕等、前田高地南側には食料壕が並んでいました
カンパン壕、首里の瑞泉壕では南部撤退の際、歩けない人たちには青酸カリを飲ませて毒殺したそうです。
これ、以前
南風原壕群で全く同じ話を聞きましたが、多くの壕で日本軍による毒殺が行われていたということですね・・・。
とはいえ、生きてさえいれば食料壕が陣ってのは不幸中の幸いか。陣となる壕によって食糧事情が違ったと、当時鉄血勤皇隊に所属していた故・大田元知事は著書「沖縄のこころ」で振り返っていました。
彼を待ち構えていた「戦争の終わり」とは・・・。リアルな沖縄戦を知りたい方にお勧め。前半はなかなか進まないけど、後半は流れるように一気読みできます。
カンパン壕前では、「カンパンとはなんぞや」ということでガイドさんからカンパンの試食配布がありました。「普段食べないおやつもたまに食べると美味しいよね」ってよく使うセリフですが、
これは取り立てて美味しいという表現も生まれてこないですね。。
私は小さな頃、祖父母からもらったおやつか何かでカンパン食べたことがありますが、一体どのくらいの世代から「食べたことがない」と言い始めるんでしょうか?
ゲートをくぐって・・・
人様の畑のような場所を失礼しながら横切っていきましょう
畑と言っても写真のとおりほぼジャングルなんですが。。
内地の皆さま、これが沖縄の畑の姿です。ぜひ覚えておいてください。。
特に説明のなかった埋もれかけの壕
そして缶詰壕
前田高地の陣地には、満州からやってきた”志村隊”なる北海道出身者中心に構成された部隊が守備に当たっていました。
前田高地の激戦は4月26日に開始され、5月6日に終了したのですが、志村隊は南部撤退の際に南へ逃げ切れず一旦この缶詰壕に戻り北上し、捕虜になったのは沖縄戦集結調印の9月7日以降だったそうです。
南に・・・行かなくて、本当によかったですね・・・。
前田集落の大切な水場である山川ガー
米軍は上空から人が集まる場所を探していて、軍民関係なく攻撃したそうです。この山川ガーも多くの民間人が犠牲になった場所の一つ。
基地があれば攻撃されない、安心なんて、こんな話を一つ一つ拾い上げていってもウソなんだなぁとつくづく感じてしまいます。基地があれば軍民の別なく標的になる・・・それが、戦争。それが、今の沖縄の地・・・。
途中で歩く前田集落のアパート。あんな場所にシーサーはちょっと珍しい
ジリチン毛という場所へやってきました。復習ですが、毛=原っぱです。
ここは前田集落周辺が道路拡張される際に移動対象となった御嶽をありったけ集めた場所です。
なので新しい
この方は結構年輩のご様子
前田集落のヒヌカン様
ここは本当に御嶽が密集しすぎているので、相性が悪い人は早く抜けた方が吉です。
一通りどんな神様がいらっしゃるか確認したら、ササッと通り過ぎてしまいましょう、お邪魔しました!!
さて、ジリチン毛を抜けて前田高地の北側に抜ければ、そこは「ありったけの地獄を一つにまとめた」と称された日本軍と米軍の激戦地の表舞台。
後編に、続く。