2017年11月03日
空手の日に参加したモニターツアーで賀数仁然さんから聞いた話を少し紹介したい。
読者の皆さん、こんにちは。
突然ですが、読者の皆さんはSNSのアカウントをいくつお持ちでしょうか?
大半の方が2つ以上のアカウントを持っているかと思いますが、中には一つもない方もいるでしょう。
私は・・・多分4つですね。ただし、2つは稼働してませんし1つは能動的に使っていません。
残りの1つ、現在稼働しているのは・・・アカウント自体は1年前に取ったものの、全く使っていなかったツイッターです。
今年度から更新頻度がぐっと落ちたので、もう少し気軽に思ったことを書けるものがないかと試しに寝かせていたツイッターのアカウントを稼働させてみました。
1日1回は呟いてみるか・・・と思ったんですが、これあまり家にいないガラケーユーザーには結構難しいですね。今、思い浮かんだこと、目の前で繰り広げられていることをすぐに投稿できるという点がツイッターのメリットだと思うんですが、私の場合、基本的に家にいる時くらいしか使えねぇですから。
加えて、こまめに見ないとたまって追うのがすごい大変。PCのみユーザーには全然向いてないですツイッター。

フォローしてる沖縄系
本当は、ここで書ききれなかった話とかちょいちょい書いてバカ(仮)の補助SNSにしようと思ったんですが、思ったより難しそうなので公開に二の足を踏んでいるところです。
思惑通りにうまくいきそうなら、こちらで紹介したいと思います(もしツイッターやってる方がいて、私のアカウント見つけてフォローしたとしても、今は特に面白くありません。念のためね)。
さて、11月になってしまいましたが今回は10月25日の話をしようと思います。
この10月25日、なんの日だかご存知ですか?
はい、沖縄県が制定する「空手の日」なんですね~。
空手の日が誕生したのは10年前の平成17年。そして今年の3月に、豊見城跡地に沖縄空手会館なるものがオープンしました。

トラバーチン造りの白く輝く空手会館。今はいいが10年後真っ黒必至。メンテしっかりね!
沖縄県としては、「2020年オリンピックの空手はぜひ沖縄で!この空手会館で!」 と一生懸命招致しているそうですが、まだ答えは見えていない様子ですね。
私は正直空手には90%ほど興味がないので結構どうでもいい話ではあるんですが、空手をしている方からすると沖縄は聖地で、訪れてみたい場所なんだそうです。それってイスラム教でいうところのメッカみたいなもの?そう考えるとすごいかも。
そして空手を嗜む人は、世界中に1億3千万人、つまり日本の総人口ほど存在するそうです。沖縄県を訪れる海外の観光客は、台湾、韓国、中国がほとんどですが、空手をやってる方はアジア圏よりヨーロッパ圏が多いイメージがあります。沖縄がまんまと空手競技の招致に成功すれば、東京や京都と比べて相対的に少ない欧米圏の観光客を取り込むチャンスになるかもしれませんね。
さて、この10月25日空手の日に、空手の歴史を巡るモニターツアーがあるということで、空手には興味ないけどさっそく申込をしてきました。
興味はなくとも参加の理由・・・それは、なんといっても沖縄の歴史・よもやま話の第一人者といって過言ではない賀数仁然さんがナビゲーターであること。

泉崎ロータリーでの寸劇や、ライター養成講座ではお世話になりました
沖縄に住んで私のサイトを見ている読者の皆さんなら、テレビやラジオ、はたまた講演やツアーなんかで一度はお世話になったことがあるはずです。私はテレビでしょっちゅうお世話になっております。
ヒトサさんとは、一度だけ面と向かってお話をしたことがあります。仕事で日々多くの方と会っているヒトサさんなので、私のことはまず間違いなく忘れているだろうと思い、声をかけませんでした。ところがバスの中で私を認めたとたん、

ヒトサさん「あ、牧さんですね。こんにちは~。今日はよろしくお願いします。」
って言ってくださったんですよ!!くださったんですよぉ!!!
正直言うと、ヒトサさんのようなタイプの方はあまり人に頓着ないだろうと思っていたので(私も)・・・もう、彼を見る目がぐるりと変わりました。これまで以上に好きになっちゃいましたね(笑
というわけで、今回はツアー中に聞いたヒトサさんのお話のうち興味深かったことについて、いくつかは私の意見なども踏まえながらかいつまんで紹介したいと思います。
【その1.壺屋が"焼き物の里"となった真の理由】
3年前に壺屋ま~いに参加した時、壺屋が焼き物の里になった理由について説明を受けました。(詳しくは奥深きやちむんの歴史、奥ゆかしきやちむん通りへ)
おさらいになりますが、今の壺屋は1682年に琉球王府が元々焼き物が盛んだった知花(沖縄市)、湧田(現在の県庁付近)、宝口(現在の首里のどこか)を統合してつくった一大焼き物産地。そして、壺屋という立地については、いい粘土が採れることや水があることが理由だと聞きました。

壺屋は大通りじゃなくて、小さな路地に入らないと本当のよさが分からないよね
説明を受けた時には、「なるほど~。」と納得したのですが、1つ大きなことを見落としていたことに気づきませんでした。それは、「なぜ統合されるに至ったのか」です。
ヒトサさんが語った壺屋誕生の真の理由・・・それはなんと、公害なんだそうですよ!!!なにそれ、一体どういうことですかヒトサさん。
当時、沖縄は儀間真常の功績によりサトウキビの生産に成功し、あちこちでサトウキビ農業が行われるようになりました。サトウキビを収穫したら、待っているのが製糖作業。この過程でサトウキビの汁を煮詰めるため、木が大量に切り倒され、冬季にまとめて燃やされます。そうなると、あらゆる場所が大量の煙灰につつまれ、公害が発生していたそうなんです。ヒトサさん曰く、「当時の琉球王国は公害先進国家」だったそうなんですね。
焼き物も、一度釜に入れたら一週間連続で薪を燃やし続ける必要があります。この煙灰対策のため、釜を一箇所にまとめた・・・それが焼き物の里、壺屋誕生の真の理由だそうなんです。
とは言っても、戦後復興の中で壺屋を中心に住宅が増えていく中で、壺屋の煙も周辺住民に文字通り煙たがられ、一部の陶工は読谷に移り住んむことに。今では壺屋の窯もガスになり、煙を出さなくなった・・・ということなんですね。

今は共同上り窯じゃなく、各窯元1つもってるガス窯
公害自体は、発生して、又は発生しかけて時の施政者が回避してきた(時には回避できなかった)歴史が相当古くからあるので、個人的には1600年代の琉球王国が公害先進国家だとまでは思わないのですが、この壺屋成り立ちのエピソードは当時の琉球王国の姿をよく教えてくれるものだと、非情に興味深いものでした。
【その2.種子島の100年前!銃来日の真相とは!?】
銃の伝来・・・それは、1543年にポルトガル船が種子島に流れ着いたことに始まったと、日本史の授業で皆さん必ず習っているはずですよね。
ところがなんと、琉球王国ではそれより遡ること100年前には銃といえるもの(火薬で矢だか玉だか飛ばす構造のもの)が使われていたんですって!驚きじゃないですか!?
この銃は当時中国や朝鮮で使われていた「手銃」で、沖縄では「ヒヤー」と呼ばれていたそうです。まだ鎖国をしていなかった日本に伝来していなかったというのは不思議な話ではありますが、とにかく銃を使っていたのは琉球王国が先だったんだそうです。

ゆる琉球史マンガbotより
ただし、当時のものは殺傷能力が非常に低く、ヒトサさん曰く「50m先で当たったら、『イテっ!』て感じですかね」という代物だったそうです。100年以上経過して、織田信長が使っていた頃の火縄銃は一回打ったら二発目まで30秒かかると言われていたため、このヒヤー、実戦ではまず使い所のない残念な銃だった・・・と言えるでしょう。
まぁ話がこれだけなら「なるほど。。」で終わったんですけど・・・。
ヒトサさんのお話では、この頃の「手銃」がシルクロードを通じてヨーロッパに入り、改良されて日本に渡ってきたんだそうですよ!なんだそれは!!
日本にとっては隣だし、交易もしていた琉球王国まで銃は伝わっていたのに、日本には上陸せず遠い遠い地を経由し、進化して後100年以上を経てやっと日本に入ってきた銃・・・とんでもなく面白い事実だと思えて仕方ありませんでした。

ポルトガルから伝来した銃、その名も「種子島」。日本人って安直だよな~
交易が盛んだっただけあって、この手銃もそうですが、測量技術とか、全身麻酔とか、伝来して取り入れたのは日本よりも琉球王国の方が早かったものって他にもあるもかもしれませんね~~。
【その3.薩摩、琉球王国に平身低頭のワケ】
琉球王国運命の日・・・1つは1879年の琉球処分ですが、もう1つは1609年の薩摩侵攻。
抵抗むなしくあっという間に攻め入られ、以来薩摩の属国と化し重税に苦しめられた琉球王国。現代の今なお、年配の世代の方にはあからさまに鹿児島出身者に冷たい人もいるほど両県に禍根を残すことになった歴史的重大事件ですが、なんとその前には、薩摩藩主から琉球国王にこんな内容の手紙が届いたそうです。

"背景、琉球国王さま。もしも日の本の国に何か御用がある場合には、是非とも薩摩を通していただければと思います!何とぞ、よろしくお願いいたします!!敬具。"
つまり、薩摩国王は平身低頭しながら琉球国王に”お願い”をしていたんですね。
まさかこの後、自ら琉球に攻め入ることになるなんてこの時は微塵も思わなかったんでしょうな~~。

そして薩摩から尚寧王(薩摩に攻め入られた時の王様)への書状。読まなくても中身が想像できる・・・
さて、なぜこんなにも薩摩が琉球王国にお願いモードだったのかというと。
1467年の応仁の乱以降、日本は統治者を失い国が乱れる世に移っていきます。この様子を見ていた琉球国王は、国としての弱体化を感じ取り、日本をあまり顧みなくなってしまったそうなんですね。
当然、薩摩はこの乱世の世の一端となってしまったわけですが、ここは常に先見の明のある薩摩、琉球王国と仲良くしておくときっといいことがあるだろうと企んで、上記の非常にへりくだった手紙を送った・・・ということなんだそうです。
繰り返しになりますが、その後掌を返すように琉球に攻め入ったわけですが。ただそれは豊臣秀吉の出現と朝鮮出兵が関係しているので、昨日の友は今日の敵、一寸先は闇・・・まさにそんな時代だったということなんでしょう。
【その4.「琉球の民って仲間思いね。」って、それかい!!】
琉球王国は海洋国家、交易国家。沖縄を代表するお酒・泡盛だって、元を正せばタイからやってきた酒に端を発しています。菌も製造方法も受け継がれなかったそうですが。
よいモノを求めて遠くは東南アジアはマラッカまで出向いていた琉球の民ですが、現地の文献には、「琉球国民はとても仲間思い」との記述が残されているそうです。
普通、死ぬかもしれない長い航海を経て異国の地まで出かけているのであれば、地縁の者同士はそりゃ同志なので仲がいいのは当たり前だと思うんですよ。なぜわざわざそんな記述が残っているの?
ヒトサさん「実は、現地で仲間が死んだ時には、塩漬けにして琉球まで連れ帰っていたそうなんですよ~。」
し・・塩漬けにしてあの長い航海を連れ帰っていたですと!?

ネットのセーフモードを解除すれば人の塩漬けも出てきますよ・・・
・・・考えてみれば。

那覇市泊の外人墓地には、中国をはじめ、オランダ、イギリス、アメリカから琉球にやってきて、滞在中に亡くなった方が多く眠っています。ペリーと一緒にやってきて、おばぁに乱暴して琉球の民に石を投げられ死んだウィリアム・ボードもここに眠っています。
そうですよ、普通現地で亡くなった人の扱いといえば、コレですよね!!これが一般的と言えるのだと思います。
しかし、琉球の民は同志を遠い異国の地に埋めず、連れて帰った・・・だからマラッカには琉球人の墓がないのだそうです。
沖縄の人たちの地縁というか、結束というか・・・それは内地の私からすると驚くほど堅いものだと感じるのですが、それは他国と比較しても感じられるものだったんですね。
【おまけ.琉球の外交戦略を仕事にも活かせ】
琉球王国は海の上の弱小国家。
琉球の強みの1つは、それを自ら自覚していたからこその外交術にあったかもしれません。

万国津梁の鐘にも謙虚にそのことを刻んでいるそうな
1800年代にフランスを皮切りに諸外国の船が交易や開国等を求めて琉球王国にやってくるようになると、琉球王国は得意の外交術を駆使してそれを乗り切っていきました。
・・・いや、乗り切ったというよりは、正確にはかわしていったとでも言うべきか。
その必殺の外交戦術というのが、相手の要求をのらりくらりとかわしながら、最終的には食べ物なんかを渡してそのまま帰っていただく、というもの。
それがついに通じなかったのがペリー一行だったようです。
ヒトサさん「僕はこれを『"だからよー。なんでかねー"外交』と呼んでいます。」

今でも沖縄県民の必殺技ですよね。話の流れが中断されなんかうやむやになるという。。
ところで、この日のツアーは私の職場の方も何名か参加していました。
ヒトサさんのこの話を聞いた時、内地からやってきた沖縄1年目の上役、ミーヤさんが隣にいたのですが・・・
牧「ミーヤさん。先日お願いした沖縄の食に関する宿題ですけど、まだ提出されてませんよ?」
ミーヤ「あれ?そうでしたっけ?」
牧「まだ間に合いますから、ぜひ出してくださいね!」

ミーヤ「んん~~、だからね~。まだ出してないのよね、なんでかね~~。」
牧「こら!さっそく使うなし!こっち見んかい!!」
結局ミーヤさんは宿題を出さず、私をのらりくらりと琉球王国的外交戦術でかわしていったのでした。
皆さんも窮地に立った時には使ってみるとピンチを切り抜けることができるかもしれませんよ・・・?
というわけで、少しですがヒトサさんのお話に少し肉付けさせていただきました。
空手、一切関係ありませんでしたけど。

ちょうどマハエちゃんが空手着で取材に来てたので一緒にパチリ!壁も、マハエも、私も、白
今日から三連休ですね。
皆さま、よい休日をお過ごし下さい。
大半の方が2つ以上のアカウントを持っているかと思いますが、中には一つもない方もいるでしょう。
私は・・・多分4つですね。ただし、2つは稼働してませんし1つは能動的に使っていません。
残りの1つ、現在稼働しているのは・・・アカウント自体は1年前に取ったものの、全く使っていなかったツイッターです。
今年度から更新頻度がぐっと落ちたので、もう少し気軽に思ったことを書けるものがないかと試しに寝かせていたツイッターのアカウントを稼働させてみました。
1日1回は呟いてみるか・・・と思ったんですが、これあまり家にいないガラケーユーザーには結構難しいですね。今、思い浮かんだこと、目の前で繰り広げられていることをすぐに投稿できるという点がツイッターのメリットだと思うんですが、私の場合、基本的に家にいる時くらいしか使えねぇですから。
加えて、こまめに見ないとたまって追うのがすごい大変。PCのみユーザーには全然向いてないですツイッター。

フォローしてる沖縄系
本当は、ここで書ききれなかった話とかちょいちょい書いてバカ(仮)の補助SNSにしようと思ったんですが、思ったより難しそうなので公開に二の足を踏んでいるところです。
思惑通りにうまくいきそうなら、こちらで紹介したいと思います(もしツイッターやってる方がいて、私のアカウント見つけてフォローしたとしても、今は特に面白くありません。念のためね)。
さて、11月になってしまいましたが今回は10月25日の話をしようと思います。
この10月25日、なんの日だかご存知ですか?
はい、沖縄県が制定する「空手の日」なんですね~。
空手の日が誕生したのは10年前の平成17年。そして今年の3月に、豊見城跡地に沖縄空手会館なるものがオープンしました。

トラバーチン造りの白く輝く空手会館。今はいいが10年後真っ黒必至。メンテしっかりね!
沖縄県としては、「2020年オリンピックの空手はぜひ沖縄で!この空手会館で!」 と一生懸命招致しているそうですが、まだ答えは見えていない様子ですね。
私は正直空手には90%ほど興味がないので結構どうでもいい話ではあるんですが、空手をしている方からすると沖縄は聖地で、訪れてみたい場所なんだそうです。それってイスラム教でいうところのメッカみたいなもの?そう考えるとすごいかも。
そして空手を嗜む人は、世界中に1億3千万人、つまり日本の総人口ほど存在するそうです。沖縄県を訪れる海外の観光客は、台湾、韓国、中国がほとんどですが、空手をやってる方はアジア圏よりヨーロッパ圏が多いイメージがあります。沖縄がまんまと空手競技の招致に成功すれば、東京や京都と比べて相対的に少ない欧米圏の観光客を取り込むチャンスになるかもしれませんね。
さて、この10月25日空手の日に、空手の歴史を巡るモニターツアーがあるということで、空手には興味ないけどさっそく申込をしてきました。
興味はなくとも参加の理由・・・それは、なんといっても沖縄の歴史・よもやま話の第一人者といって過言ではない賀数仁然さんがナビゲーターであること。

泉崎ロータリーでの寸劇や、ライター養成講座ではお世話になりました
沖縄に住んで私のサイトを見ている読者の皆さんなら、テレビやラジオ、はたまた講演やツアーなんかで一度はお世話になったことがあるはずです。私はテレビでしょっちゅうお世話になっております。
ヒトサさんとは、一度だけ面と向かってお話をしたことがあります。仕事で日々多くの方と会っているヒトサさんなので、私のことはまず間違いなく忘れているだろうと思い、声をかけませんでした。ところがバスの中で私を認めたとたん、

ヒトサさん「あ、牧さんですね。こんにちは~。今日はよろしくお願いします。」
って言ってくださったんですよ!!くださったんですよぉ!!!
正直言うと、ヒトサさんのようなタイプの方はあまり人に頓着ないだろうと思っていたので(私も)・・・もう、彼を見る目がぐるりと変わりました。これまで以上に好きになっちゃいましたね(笑
というわけで、今回はツアー中に聞いたヒトサさんのお話のうち興味深かったことについて、いくつかは私の意見なども踏まえながらかいつまんで紹介したいと思います。
【その1.壺屋が"焼き物の里"となった真の理由】
3年前に壺屋ま~いに参加した時、壺屋が焼き物の里になった理由について説明を受けました。(詳しくは奥深きやちむんの歴史、奥ゆかしきやちむん通りへ)
おさらいになりますが、今の壺屋は1682年に琉球王府が元々焼き物が盛んだった知花(沖縄市)、湧田(現在の県庁付近)、宝口(現在の首里のどこか)を統合してつくった一大焼き物産地。そして、壺屋という立地については、いい粘土が採れることや水があることが理由だと聞きました。

壺屋は大通りじゃなくて、小さな路地に入らないと本当のよさが分からないよね
説明を受けた時には、「なるほど~。」と納得したのですが、1つ大きなことを見落としていたことに気づきませんでした。それは、「なぜ統合されるに至ったのか」です。
ヒトサさんが語った壺屋誕生の真の理由・・・それはなんと、公害なんだそうですよ!!!なにそれ、一体どういうことですかヒトサさん。
当時、沖縄は儀間真常の功績によりサトウキビの生産に成功し、あちこちでサトウキビ農業が行われるようになりました。サトウキビを収穫したら、待っているのが製糖作業。この過程でサトウキビの汁を煮詰めるため、木が大量に切り倒され、冬季にまとめて燃やされます。そうなると、あらゆる場所が大量の煙灰につつまれ、公害が発生していたそうなんです。ヒトサさん曰く、「当時の琉球王国は公害先進国家」だったそうなんですね。
焼き物も、一度釜に入れたら一週間連続で薪を燃やし続ける必要があります。この煙灰対策のため、釜を一箇所にまとめた・・・それが焼き物の里、壺屋誕生の真の理由だそうなんです。
とは言っても、戦後復興の中で壺屋を中心に住宅が増えていく中で、壺屋の煙も周辺住民に文字通り煙たがられ、一部の陶工は読谷に移り住んむことに。今では壺屋の窯もガスになり、煙を出さなくなった・・・ということなんですね。

今は共同上り窯じゃなく、各窯元1つもってるガス窯
公害自体は、発生して、又は発生しかけて時の施政者が回避してきた(時には回避できなかった)歴史が相当古くからあるので、個人的には1600年代の琉球王国が公害先進国家だとまでは思わないのですが、この壺屋成り立ちのエピソードは当時の琉球王国の姿をよく教えてくれるものだと、非情に興味深いものでした。
【その2.種子島の100年前!銃来日の真相とは!?】
銃の伝来・・・それは、1543年にポルトガル船が種子島に流れ着いたことに始まったと、日本史の授業で皆さん必ず習っているはずですよね。
ところがなんと、琉球王国ではそれより遡ること100年前には銃といえるもの(火薬で矢だか玉だか飛ばす構造のもの)が使われていたんですって!驚きじゃないですか!?
この銃は当時中国や朝鮮で使われていた「手銃」で、沖縄では「ヒヤー」と呼ばれていたそうです。まだ鎖国をしていなかった日本に伝来していなかったというのは不思議な話ではありますが、とにかく銃を使っていたのは琉球王国が先だったんだそうです。

ゆる琉球史マンガbotより
ただし、当時のものは殺傷能力が非常に低く、ヒトサさん曰く「50m先で当たったら、『イテっ!』て感じですかね」という代物だったそうです。100年以上経過して、織田信長が使っていた頃の火縄銃は一回打ったら二発目まで30秒かかると言われていたため、このヒヤー、実戦ではまず使い所のない残念な銃だった・・・と言えるでしょう。
まぁ話がこれだけなら「なるほど。。」で終わったんですけど・・・。
ヒトサさんのお話では、この頃の「手銃」がシルクロードを通じてヨーロッパに入り、改良されて日本に渡ってきたんだそうですよ!なんだそれは!!
日本にとっては隣だし、交易もしていた琉球王国まで銃は伝わっていたのに、日本には上陸せず遠い遠い地を経由し、進化して後100年以上を経てやっと日本に入ってきた銃・・・とんでもなく面白い事実だと思えて仕方ありませんでした。

ポルトガルから伝来した銃、その名も「種子島」。日本人って安直だよな~
交易が盛んだっただけあって、この手銃もそうですが、測量技術とか、全身麻酔とか、伝来して取り入れたのは日本よりも琉球王国の方が早かったものって他にもあるもかもしれませんね~~。
【その3.薩摩、琉球王国に平身低頭のワケ】
琉球王国運命の日・・・1つは1879年の琉球処分ですが、もう1つは1609年の薩摩侵攻。
抵抗むなしくあっという間に攻め入られ、以来薩摩の属国と化し重税に苦しめられた琉球王国。現代の今なお、年配の世代の方にはあからさまに鹿児島出身者に冷たい人もいるほど両県に禍根を残すことになった歴史的重大事件ですが、なんとその前には、薩摩藩主から琉球国王にこんな内容の手紙が届いたそうです。

"背景、琉球国王さま。もしも日の本の国に何か御用がある場合には、是非とも薩摩を通していただければと思います!何とぞ、よろしくお願いいたします!!敬具。"
つまり、薩摩国王は平身低頭しながら琉球国王に”お願い”をしていたんですね。
まさかこの後、自ら琉球に攻め入ることになるなんてこの時は微塵も思わなかったんでしょうな~~。

そして薩摩から尚寧王(薩摩に攻め入られた時の王様)への書状。読まなくても中身が想像できる・・・
さて、なぜこんなにも薩摩が琉球王国にお願いモードだったのかというと。
1467年の応仁の乱以降、日本は統治者を失い国が乱れる世に移っていきます。この様子を見ていた琉球国王は、国としての弱体化を感じ取り、日本をあまり顧みなくなってしまったそうなんですね。
当然、薩摩はこの乱世の世の一端となってしまったわけですが、ここは常に先見の明のある薩摩、琉球王国と仲良くしておくときっといいことがあるだろうと企んで、上記の非常にへりくだった手紙を送った・・・ということなんだそうです。
繰り返しになりますが、その後掌を返すように琉球に攻め入ったわけですが。ただそれは豊臣秀吉の出現と朝鮮出兵が関係しているので、昨日の友は今日の敵、一寸先は闇・・・まさにそんな時代だったということなんでしょう。
【その4.「琉球の民って仲間思いね。」って、それかい!!】
琉球王国は海洋国家、交易国家。沖縄を代表するお酒・泡盛だって、元を正せばタイからやってきた酒に端を発しています。菌も製造方法も受け継がれなかったそうですが。
よいモノを求めて遠くは東南アジアはマラッカまで出向いていた琉球の民ですが、現地の文献には、「琉球国民はとても仲間思い」との記述が残されているそうです。
普通、死ぬかもしれない長い航海を経て異国の地まで出かけているのであれば、地縁の者同士はそりゃ同志なので仲がいいのは当たり前だと思うんですよ。なぜわざわざそんな記述が残っているの?
ヒトサさん「実は、現地で仲間が死んだ時には、塩漬けにして琉球まで連れ帰っていたそうなんですよ~。」
し・・塩漬けにしてあの長い航海を連れ帰っていたですと!?

ネットのセーフモードを解除すれば人の塩漬けも出てきますよ・・・
・・・考えてみれば。

那覇市泊の外人墓地には、中国をはじめ、オランダ、イギリス、アメリカから琉球にやってきて、滞在中に亡くなった方が多く眠っています。ペリーと一緒にやってきて、おばぁに乱暴して琉球の民に石を投げられ死んだウィリアム・ボードもここに眠っています。
そうですよ、普通現地で亡くなった人の扱いといえば、コレですよね!!これが一般的と言えるのだと思います。
しかし、琉球の民は同志を遠い異国の地に埋めず、連れて帰った・・・だからマラッカには琉球人の墓がないのだそうです。
沖縄の人たちの地縁というか、結束というか・・・それは内地の私からすると驚くほど堅いものだと感じるのですが、それは他国と比較しても感じられるものだったんですね。
【おまけ.琉球の外交戦略を仕事にも活かせ】
琉球王国は海の上の弱小国家。
琉球の強みの1つは、それを自ら自覚していたからこその外交術にあったかもしれません。

万国津梁の鐘にも謙虚にそのことを刻んでいるそうな
1800年代にフランスを皮切りに諸外国の船が交易や開国等を求めて琉球王国にやってくるようになると、琉球王国は得意の外交術を駆使してそれを乗り切っていきました。
・・・いや、乗り切ったというよりは、正確にはかわしていったとでも言うべきか。
その必殺の外交戦術というのが、相手の要求をのらりくらりとかわしながら、最終的には食べ物なんかを渡してそのまま帰っていただく、というもの。
それがついに通じなかったのがペリー一行だったようです。
ヒトサさん「僕はこれを『"だからよー。なんでかねー"外交』と呼んでいます。」

今でも沖縄県民の必殺技ですよね。話の流れが中断されなんかうやむやになるという。。
ところで、この日のツアーは私の職場の方も何名か参加していました。
ヒトサさんのこの話を聞いた時、内地からやってきた沖縄1年目の上役、ミーヤさんが隣にいたのですが・・・
牧「ミーヤさん。先日お願いした沖縄の食に関する宿題ですけど、まだ提出されてませんよ?」
ミーヤ「あれ?そうでしたっけ?」
牧「まだ間に合いますから、ぜひ出してくださいね!」

ミーヤ「んん~~、だからね~。まだ出してないのよね、なんでかね~~。」
牧「こら!さっそく使うなし!こっち見んかい!!」
結局ミーヤさんは宿題を出さず、私をのらりくらりと琉球王国的外交戦術でかわしていったのでした。
皆さんも窮地に立った時には使ってみるとピンチを切り抜けることができるかもしれませんよ・・・?
というわけで、少しですがヒトサさんのお話に少し肉付けさせていただきました。
空手、一切関係ありませんでしたけど。

ちょうどマハエちゃんが空手着で取材に来てたので一緒にパチリ!壁も、マハエも、私も、白
今日から三連休ですね。
皆さま、よい休日をお過ごし下さい。
Posted by 牧 at 12:53│Comments(0)
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