2018年01月27日
ベトナム一人旅旅情 ~類似点、年末年始前編~
文化・食事編からの、続き。
その3.類似点と差異
ベトナムに足を運んで初めて感じた、沖縄との類似点と違い。
読者のみなさんは、どう思うでしょうか?
のっけからの薄気味悪い写真、ここはハノイ市内のホアロー収容所跡。
フランスの植民地時代に政治犯を投獄するためにフランスが作った収容所で、当時はアジアで一番でかい収容所だったそうですよ。しかしそれでもギュウギュウに人が詰められていたということで、当時のフランスの植民地支配がいかに厳しく、人々が反発していたかよくわかります。
足かせをはめられた政治犯なんだけど、このカメラ目線・・撮られるの構えてるみたい
どうでもいい話ですが、右の方が沖縄の知人に異様にくりそつで・・・・メタボの多い沖縄県民も、痩せれば日本人よりベトナム人に似てるんじゃないかと思います。
数え切れないほどの人の頭と体を切り離したであろうギロチン。後ろに首の写真があるのが見えますか?
一枚この写真を撮り終わり、フラッシュなしでもう一枚・・・と思いカメラを構えたところ・・・
強烈な頭痛が走り、膝をつきそうになりました。
ベトナム旅の最中、頭が痛んだのはこの1回きり。
恐らくは、「これ以上撮るな!」という何かの意思表示だったんだろうと思い直し、これ以上カメラを向けることは控えました(しかし写真は載せる)。
先にもお話しましたが、フランスの植民地と化して、その後アメリカと戦争というこの流れ・・・大雑把に見ればですけど、ちょっと沖縄に似てるなぁと、ふと思ったのです。
ベトナムは文字通りフランスの「植民地」であり、その重税っぷりは目を見張るものがあったそうです。そのため反発はひどく、政治犯はわんさか出てくるという状態。その後の第一次インドシナ戦争でフランスの撃退に成功するも、俺様なアメリカがしゃしゃり出て戦争を再開(ベトナム戦争)、しかし世論の反発に負けて結局アメリカも撤退、共産主義勢力の傘下に入ることになったベトナム。
沖縄も1609年に薩摩の支配下に入り、琉球王国が得る税その他の20%+α(だったはず)を吸い上げられていました。ただ、沖縄は武力を取り上げられたこともあり、薩摩に武器で抵抗を見せることは私が知る限りなかったようですが・・・。20世紀の半ばに差し掛かる頃には国(支配国)が始めた戦争の矢面に立たされ、あとは皆さまのよく知るとおりの運命を辿り、そして今もそこから抜けきれない沖縄。
・・・・ん?
こうして大まかなあらすじを書けば、だいたい違うことはお分かりいただけたかと思います。
が、決定的に違うことと言えば、沖縄は薩摩に負けたことをきっかけに日本の支配下に入り、そのせいで間接的にアメリカにも負けたこと。ベトナムは、支配国であるフランスを撃退し、アメリカにも勝ったことでしょうか。
第一次インドシナ戦争(対仏)の英雄、ホーチミンの博物館
戦いにより支配体制を脱却し、自由を勝ち取ったという経験は日本人には決して分からないモノだと思いますが、対フランス戦でベトナムを勝利に導いたホー・チ・ミンがベトナムで完全に英雄扱いされるのは、その大いなる成功体験が理由でしょう。
写真の博物館では、ホー・チ・ミンの遺体が腐らず保存され、誰でも拝むことができるそうです。私も覗いてみたかったんですが、早く行かないと行列で中に入れないこともあるようです。死してなお、国民にも観光客にも人気なホー・チ・ミン。
博物館の近く、ホー・チ・ミンの廟。私の知ってる廟の大きさどころではない
ベトナム・ドンの札には全て同じ顔が並ぶ。タイバーツもプミポン国王祭りだった
美術館で見た一枚の絵。彼はよく「ホーおじさん」と称される
先に紹介した美術館には戦争を題材にした絵が多くありましたが、ホー・チ・ミンは結構な頻度で出現します。そのどれもが戦場で戦い抜く姿というより、柔らかい表情で子どもと触れ合っている姿。民から彼がどれだけ愛されているかがよく分かります。
まぁ、一番彼の英雄っぷりが象徴されていると思うのは、ベトナム戦争終結により「サイゴンシティ」が「ホーチミン市」に変わったことですね。英雄の名前が大都市の名前だなんて、ぱっと思いつくのは東ヨーロッパ~北アフリカに多く存在した「アレキサンドリア」くらいのものですよ。自分で名付けたか、ヒトに名付けられたかで大きな違いはありますが。
銃をもちゲリラ戦に参加する女性の銅像
美術館の展示品から、インドシナ戦争には女性も銃を携え多く従軍していたことがうかがえます。しかも強制的な動員ではなく、自由を求めた人々が自ら参加したという、これまた沖縄とは真逆の展開
ベトナムの、戦争の爪痕
沖縄が受けた、米軍艦隊からの艦砲射撃の爪痕
ベトナムには、戦争を物語る観光地や博物館が多くあります。ホー・チ・ミン関係のものは言わずもがな、前述の「ホアロー収容所」に「戦争博物館」、「B52博物館」(←ニッチすぎる)、中部フエにある非武装地帯(南北ベトナムの境界線)などなど。
双方結果の違いはあれど、沖縄が平和教育の場として戦後みなされてきたのと同じくらい、ベトナムも十分にその要素を包含していたのでした。
その4.年末年始
この年末年始に私がベトナムを選んだ決定的な理由がありました。
1年前、シェムリアップの貧乏バスツアーで同乗していた11人は、大型連休があれば今でもLINEグループで行き先を報告し合う中なのですが、そのうちの一人から、「大晦日にホイアンのランタン祭りがある」という情報が報じられたのです。
即座に調べてみる私。
・・・・行くしかない!!
というわけで、拠点はハノイではありますがこの大晦日~元日にかけてだけ、このランタン祭りを堪能するためダナン空港に飛んだのでした。
ダナンのランドマーク、ドラゴンブリッジ・・・のお尻から
ハノイの冬は那覇の冬とほぼ同じような気温ですが、ダナンはまるで初夏の気候、日中は半袖で歩きたくなるほどです。
ダナンはベトナムのリゾート地として開発され、売っているおかげで近年人気だそうです。が、街を歩いた限りあまりその気配を感じることはできません。一体何にリゾートを感じるのだろう??海まで行けばよかったのかな?
その辺に適当におかれている過去の異物たち
彫刻博物館に入ってみたところ、中にあったのはシェムリアップではその辺にゴロゴロ転がっていたものばかり。
確かに歴史的価値は十分あるかもしれませんが、カンボジア行ったことのある人はもう目が肥えてるんでダメですね。ベトナムでは彫刻や発掘物は見ないほうがいいです、大きなガッカリを味わうこと請け合いです。
161cmの女性でも前面のシートに膝がつくほどに狭いバスに乗って、約50分。
世界遺産の街、ホイアンに到着しました。
ここホイアンは、中国風とコロニアル様式が同居した、古い街並みが特徴の街。戦争であまり破壊されることもなかったので、昔の面影を留めており、世界でも唯一とも言える景観が保たれています。
そして何より、
1600年前後には日本人が貿易を求めて多く来訪していたそうです。これはホイアンのランドマーク来遠橋ですが、日本人が日本の技術をもって造ったため、通称「日本橋」と呼ばれています。ネーミングは安直ですね。
日本人に所縁のある場所であるためか、観光客も他所に比べて日本人の割合が圧倒的に高い。特にこの日本橋の中とか、重みで抜けるんじゃないかってくらい人がいるんですが、その半分くらい日本人かもね。
日本人橋の中に吊るされているランタンに書かれた文字が・・・
昔この川が暴れるので、日本人橋が活躍したんだとか。まぁ見ての通りドブ川ですけども
ランタンが有名だけど、こんな風にランタンを沢山売ってる店は多くない
珍しい青を基調にした造り。向こうは中国風の赤。ミスマッチの混在がベトナムらしい
でも、高い場所から街を見回すとヨーロッパに来たんじゃないかと勘違いしそう
バカ(仮)史上最高にキリが悪いのですが、3週連続の出張と風邪ひきでとても書き続けられないので、一端ここで切ります。
次回でベトナム終わりです。はよ終わらせます。
ベトナムに足を運んで初めて感じた、沖縄との類似点と違い。
読者のみなさんは、どう思うでしょうか?
のっけからの薄気味悪い写真、ここはハノイ市内のホアロー収容所跡。
フランスの植民地時代に政治犯を投獄するためにフランスが作った収容所で、当時はアジアで一番でかい収容所だったそうですよ。しかしそれでもギュウギュウに人が詰められていたということで、当時のフランスの植民地支配がいかに厳しく、人々が反発していたかよくわかります。
足かせをはめられた政治犯なんだけど、このカメラ目線・・撮られるの構えてるみたい
どうでもいい話ですが、右の方が沖縄の知人に異様にくりそつで・・・・メタボの多い沖縄県民も、痩せれば日本人よりベトナム人に似てるんじゃないかと思います。
数え切れないほどの人の頭と体を切り離したであろうギロチン。後ろに首の写真があるのが見えますか?
一枚この写真を撮り終わり、フラッシュなしでもう一枚・・・と思いカメラを構えたところ・・・
強烈な頭痛が走り、膝をつきそうになりました。
ベトナム旅の最中、頭が痛んだのはこの1回きり。
恐らくは、「これ以上撮るな!」という何かの意思表示だったんだろうと思い直し、これ以上カメラを向けることは控えました(しかし写真は載せる)。
先にもお話しましたが、フランスの植民地と化して、その後アメリカと戦争というこの流れ・・・大雑把に見ればですけど、ちょっと沖縄に似てるなぁと、ふと思ったのです。
ベトナムは文字通りフランスの「植民地」であり、その重税っぷりは目を見張るものがあったそうです。そのため反発はひどく、政治犯はわんさか出てくるという状態。その後の第一次インドシナ戦争でフランスの撃退に成功するも、俺様なアメリカがしゃしゃり出て戦争を再開(ベトナム戦争)、しかし世論の反発に負けて結局アメリカも撤退、共産主義勢力の傘下に入ることになったベトナム。
沖縄も1609年に薩摩の支配下に入り、琉球王国が得る税その他の20%+α(だったはず)を吸い上げられていました。ただ、沖縄は武力を取り上げられたこともあり、薩摩に武器で抵抗を見せることは私が知る限りなかったようですが・・・。20世紀の半ばに差し掛かる頃には国(支配国)が始めた戦争の矢面に立たされ、あとは皆さまのよく知るとおりの運命を辿り、そして今もそこから抜けきれない沖縄。
・・・・ん?
こうして大まかなあらすじを書けば、だいたい違うことはお分かりいただけたかと思います。
が、決定的に違うことと言えば、沖縄は薩摩に負けたことをきっかけに日本の支配下に入り、そのせいで間接的にアメリカにも負けたこと。ベトナムは、支配国であるフランスを撃退し、アメリカにも勝ったことでしょうか。
第一次インドシナ戦争(対仏)の英雄、ホーチミンの博物館
戦いにより支配体制を脱却し、自由を勝ち取ったという経験は日本人には決して分からないモノだと思いますが、対フランス戦でベトナムを勝利に導いたホー・チ・ミンがベトナムで完全に英雄扱いされるのは、その大いなる成功体験が理由でしょう。
写真の博物館では、ホー・チ・ミンの遺体が腐らず保存され、誰でも拝むことができるそうです。私も覗いてみたかったんですが、早く行かないと行列で中に入れないこともあるようです。死してなお、国民にも観光客にも人気なホー・チ・ミン。
博物館の近く、ホー・チ・ミンの廟。私の知ってる廟の大きさどころではない
ベトナム・ドンの札には全て同じ顔が並ぶ。タイバーツもプミポン国王祭りだった
美術館で見た一枚の絵。彼はよく「ホーおじさん」と称される
先に紹介した美術館には戦争を題材にした絵が多くありましたが、ホー・チ・ミンは結構な頻度で出現します。そのどれもが戦場で戦い抜く姿というより、柔らかい表情で子どもと触れ合っている姿。民から彼がどれだけ愛されているかがよく分かります。
まぁ、一番彼の英雄っぷりが象徴されていると思うのは、ベトナム戦争終結により「サイゴンシティ」が「ホーチミン市」に変わったことですね。英雄の名前が大都市の名前だなんて、ぱっと思いつくのは東ヨーロッパ~北アフリカに多く存在した「アレキサンドリア」くらいのものですよ。自分で名付けたか、ヒトに名付けられたかで大きな違いはありますが。
銃をもちゲリラ戦に参加する女性の銅像
美術館の展示品から、インドシナ戦争には女性も銃を携え多く従軍していたことがうかがえます。しかも強制的な動員ではなく、自由を求めた人々が自ら参加したという、これまた沖縄とは真逆の展開
ベトナムの、戦争の爪痕
沖縄が受けた、米軍艦隊からの艦砲射撃の爪痕
ベトナムには、戦争を物語る観光地や博物館が多くあります。ホー・チ・ミン関係のものは言わずもがな、前述の「ホアロー収容所」に「戦争博物館」、「B52博物館」(←ニッチすぎる)、中部フエにある非武装地帯(南北ベトナムの境界線)などなど。
双方結果の違いはあれど、沖縄が平和教育の場として戦後みなされてきたのと同じくらい、ベトナムも十分にその要素を包含していたのでした。
その4.年末年始
この年末年始に私がベトナムを選んだ決定的な理由がありました。
1年前、シェムリアップの貧乏バスツアーで同乗していた11人は、大型連休があれば今でもLINEグループで行き先を報告し合う中なのですが、そのうちの一人から、「大晦日にホイアンのランタン祭りがある」という情報が報じられたのです。
即座に調べてみる私。
・・・・行くしかない!!
というわけで、拠点はハノイではありますがこの大晦日~元日にかけてだけ、このランタン祭りを堪能するためダナン空港に飛んだのでした。
ダナンのランドマーク、ドラゴンブリッジ・・・のお尻から
ハノイの冬は那覇の冬とほぼ同じような気温ですが、ダナンはまるで初夏の気候、日中は半袖で歩きたくなるほどです。
ダナンはベトナムのリゾート地として開発され、売っているおかげで近年人気だそうです。が、街を歩いた限りあまりその気配を感じることはできません。一体何にリゾートを感じるのだろう??海まで行けばよかったのかな?
その辺に適当におかれている過去の異物たち
彫刻博物館に入ってみたところ、中にあったのはシェムリアップではその辺にゴロゴロ転がっていたものばかり。
確かに歴史的価値は十分あるかもしれませんが、カンボジア行ったことのある人はもう目が肥えてるんでダメですね。ベトナムでは彫刻や発掘物は見ないほうがいいです、大きなガッカリを味わうこと請け合いです。
161cmの女性でも前面のシートに膝がつくほどに狭いバスに乗って、約50分。
世界遺産の街、ホイアンに到着しました。
ここホイアンは、中国風とコロニアル様式が同居した、古い街並みが特徴の街。戦争であまり破壊されることもなかったので、昔の面影を留めており、世界でも唯一とも言える景観が保たれています。
そして何より、
1600年前後には日本人が貿易を求めて多く来訪していたそうです。これはホイアンのランドマーク来遠橋ですが、日本人が日本の技術をもって造ったため、通称「日本橋」と呼ばれています。ネーミングは安直ですね。
日本人に所縁のある場所であるためか、観光客も他所に比べて日本人の割合が圧倒的に高い。特にこの日本橋の中とか、重みで抜けるんじゃないかってくらい人がいるんですが、その半分くらい日本人かもね。
日本人橋の中に吊るされているランタンに書かれた文字が・・・
昔この川が暴れるので、日本人橋が活躍したんだとか。まぁ見ての通りドブ川ですけども
ランタンが有名だけど、こんな風にランタンを沢山売ってる店は多くない
珍しい青を基調にした造り。向こうは中国風の赤。ミスマッチの混在がベトナムらしい
でも、高い場所から街を見回すとヨーロッパに来たんじゃないかと勘違いしそう
バカ(仮)史上最高にキリが悪いのですが、3週連続の出張と風邪ひきでとても書き続けられないので、一端ここで切ります。
次回でベトナム終わりです。はよ終わらせます。
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